池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『北海道大学総合博物館』

No.17



 北海道大学の前身である札幌農学校は、明治9年(1876)に開講した。以来130年近い歴史の中で、12の学部を擁する総合大学に発展した。
 創設期にウィリアム・クラークを教頭に迎え、全人教育と開拓者精神を教育理念とした学問の伝統を築き上げている。
 大学に収集された学術標本や資料は400万点を越しているが、それらを広く活用するため、4年前に北海道大学総合博物館が設置された。
 博物館は理学部の一階に開設されており、併せて3階の一画が資料陳列室として公開されている。
■ウィリアム・クラーク
 北大を語る時はどうしても札幌農学校時代のクラークに触れなければならない。博物館の最初の部屋では、クラークの人となりとそのエピソードが描かれている。
 クラークは1826年マサチュセッツ州に生れ、アマースト大学を卒業後、ドイツのゲッチンゲン大学で鉱物学と化学を学んだ。Ph.D.を得た後に帰国してアマースト大学の化学の教授となった。1867年にはマサチュセッツ農科大学を創設し、その学長となった。
 明治5年通商条約改正のため渡米した岩倉具視一行も、マサチュセッツ農科大学を視察しており、北海道開拓使にもこの大学の卒業生が在職していた。

 クラークは明治9年5月20日に米国を出発し、6月末に東京に着いた。東京英語学校より選ばれた入学生と共に船で小樽に入陸し、7月末に札幌に到着した。
 入学生は開拓従事者養成のための札幌学校でも試験が行われ、12名が合格した。
 札幌農学校
 札幌農学校の開講式は明治9年(1876)8月14日に行われた。開拓長官黒田清隆や校長調所広丈の挨拶に続いて、教頭であるクラークが英語で演説した。
 1期生は24名であり、修学年限は4年であった。学年は8月より7月で2期に分かれ、授業は主として午前中で、毎日少くとも4時間は復習が課せられていた。
 授業は国語、英語、演説法、英語討論、作文のほか幾何、代数、三角法、測量、土木、物理、天文、化学、動植物学、地質、生理、解剖、農学、園芸、心理、経済、兵学、用兵学などがあった。
 各学年に練兵や演説法、翻訳が週2時間設けられ、農学、畜産学、農芸化学、園芸学、造園学、果樹栽培、顕微鏡学、獣医学及実習などの農学関連科目のほか、高低測量及製図、実測製図、三角測量、水利工学、地質学といった土木測量に関するものがあった。農学実習は多く週6時間組まれていた。


■寮
 学生は寮で寄宿生活をしていた。寮の規則は舎則として9ケ条が定められていた。
 第2条官物及び給貸品は破毀遺失する者は之を償はしむべし。
 第4条各舎一人ずつ交番を以て当番を定め室内を掃除すべし。若し室中を不潔にし或は書器等を錯乱せしむ時は当番の者の其責に任ずべし。
 第6条沐浴は午後四時より五時半迄を限る。喫飯は報鐘後三十分を過ぐる時は食するを許さず。
 第8条帰校の時刻は午後七時に過ぐべからず。事故あって帰校の期に後るる者は其前当直之届出すべし。
 第9条生徒に小使を使役すべからず。
 現在と較べると風呂の時間や寮の門限が早いようであるが、当時周りは自然ばかりで遊ぶ処もなく、学問に専念することが責務であった官貴給費生としては当然のことであったと思える。
学生と教師
 クラークは8ケ月札幌に滞在して、明治10(1877)4月に札幌を離れた。別れの言葉が有名な“Boys, be ambitious”である。帰国後マサチュセッツ農科大学の学長の職に戻り、明治

19年にアマーストで亡くなった。享年60才であった。
 北大創設50周年を記念してクラークの胸像が作られ、クラーク会館の前に設置されている。
 明治10年1月30日クラークはペンハローおよび1期生14名と共に手稲山に登った。米俵の端に当てる丸い桟俵を携行し、帰りは橇代りにして山を下った。
 木の梢に珍らしい地衣類を見つけたクラークは自ら四つん這いになり、黒岩四方進を土足のまま背に登らせて採集した。
 桟俵で勢いよく下った大島正健は雪穴に嵌まってしまい、一行のおやつである煎餅袋を失くしてしまった。
 明治10年8月にはペンハロー、大島正健、佐藤昌介、内田瀞、荒川重秀らは石狩川遡上を試みた。
 流れの急な処は船を曵いて遡上し、アイヌの獲った鱒を食べ、アイヌの古老から熊との格闘話しを聴いたりした。熊獲りの話を聴きながら荒川重秀は居眠りをし「he himself 腰を抜かした」と寝言を呟いたといわれている。
 夜天幕で寝ている時熊が出てきたが、一行は疲れ果てていたため気がつかなかった。


■学舎
 ペンハローの設計によって2階建ての化学実験室が作られた。1階は分析室、天秤室があり、2階には講堂と鉱物展示室があった。
 更に標本陳列室と教練及び武器室を備えた演武場が建設されたが、後年ニューヨークより取り寄せられた大時計が設置されたので、時計台の呼称で親しまれている。
 農学校は付属農園の経営にも力を入れたが、畜舎はクラークの設計によるものが、現在も第二農場に残されている。
■同窓生
 札幌農学校及び北大に学んだ人々は多いが、中でも有名な新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎、大島正健の著書や手紙類、植物学の宮部金吾、土木工学の廣井勇らの業績がパネルや資料によって紹介されている。
 雪氷の研究で名高い中谷宇吉朗は研究室の一部が再現されており、世界初の人口雪誕生の模様を知ることができる。
 研究紹介
 総合大学である北大の各学部、研究室で行われている研究の一端が、テーマと内容と共に紹

介されている。
 遺伝子、医療、ガン、資源エネルギー、宇宙、人口、社会、情報、通信、都市、交通、生命とあらゆる分野に渡っているが、具体的な研究としては「次世代ポストゲノム研究としての複合糖質科学」「動脈硬化物質の遺伝子解析」「身体機能日内リズム体内時計と脳中枢」といったものがある。
 中でも1990年に行われた世界初の遺伝子治療は最先端医療の一つとして知られている。当時4才6ケ月のADA欠損症の幼児に治療を実施した。ADAとはアデノシン・デアミナーゼという酵素が体内に存在しないために、幼い内に免疫不全で死亡する先天性の病気である。
■ピウスツキーの蝋管
 人間に関する展示の中では、ブロニスワフ・ピウスツキーの蝋管再生装置が興味を引いた。
 ピウスツキーはポーランドの人類学者でカラフトアイヌの言葉を1903年に蝋管に録音した。
 蝋管は傷みがひどく再生は困難であったが、直接針を当てないで再生する方法を北大で考案し、幻と言われたカラフトアイヌの言葉が蘇ったのである。



■標本展示
 理学部3階には地質、化石の標本が公開されている。
 鉱石類は結晶の色や形が様々で美しいが、化石類は具体的な形が読みとれるので、一層興味を引くものが多い。
 珪藻といったミクロのものから、亀の糞、蜻蛉や貝、アンモナイトのほか、恐竜のような大型化石まで展示されている。
 ニッポノサウルスと命名された日本竜は1934年旧日本領の樺太豊原で発掘された恐竜である。その他カナダアルバータ州で1922年に見出されたパラサウロロフスや樺太敷香で1933年に発掘されたデスモスチルスの骨格標本が展示されている。
■遠友学舎
 第二農場の古い畜舎の東に新渡戸稲造とメリー夫人を記念した遠友学舎がある。新渡戸夫妻は遠友夜学校を明治27年に豊平に開いて、貧し
い家の子弟に無料で教育をした。
 新渡戸の夜学校に因んだ遠友学舎ではその精神を受け継いで公開講座が開かれ、学術的な催しが行われている。
 私が訪れた時はフランスのル・コルビュジェの建築物が全プロジェクトの模型展が開かれていた。
 Le Corbusierは本名をシャルル・エドワルド・ジャンヌレといい、1887年スイスのラ・ショード・フォンで生まれた。
 建築を学んだ後1914年にドミノ型住宅、1922年にシトロアン型住宅を設計し、近代建築の先駆的理論家として知られている。
 数々の建築を手がけて有名になったが、1965年にカップ・マルタンで海水浴中に死亡した。享年77才であった。
 遠友学舎は大学関係者と市民との交流の場として、各種公開講座のほか、コンサートや展示会が行われている。


バックナンバー  

Copyright (C)Press Work 2002 All Right Reserved.