池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『横須賀市自然人文博物館』


 東京湾を囲んで、東側が千葉、奥が東京、西側が神奈川である。西側に沿って横浜と横須賀(三浦半島)が並んでいる。
 横須賀の「スカ」とは古語で砂浜のことなので、横浜と同じように砂浜が伸びているところという意味である。
●子どもの頃
 私は横須賀の公卿(クゴウ)町で生まれた。公卿という名は、頼朝の配下であった三浦大介の館がここにあったためらしい。
 戦争の始まった年に生まれた私は、昭和20年の2月に建物の強制疎開に合って、家を失った。両親が近くの山腹に防空壕を掘り、一家で半年程暮らした想い出がある。
 戦後の物の不足した時代に小学生であった。小学校に入学した時は、紙不足のため国語の教科書が不足しており、籤(くじ)引きで負けた私は使い古しの教科書を与えられた。
 極端な物不足が続く中で、鉛筆、クレヨンなどの学用品や運動靴、傘などの日用品のすべてが配給であり、希望者が沢山いるため、仲々手に入れることができなかった。
 冬でも半ズボンを着ていたり、継ぎの当った服は珍しくなく、雨の日には破れた番傘をさしていった。木を切って下駄を作ったこともあった。
 私の父は、東京で働きながら大学に通っていた。やがて母と知り合い、結婚して横須賀の酸水素会社に勤めることになった。戦争が続いていたので、化学工場の責任者となった父は、多忙な毎日を送っていた。
 会社の隣に家があり、ガスタンクが2つ裏手に見えた。戦時中は化学薬品と共に医薬品を作っていたようである。
 戦後、一キロ程離れたところに古い家を買って移り住んだ。家主は茨木に疎開していたが、その息子が外地から引揚げて来て我家に住みついたりした。
 水道はなく、庭にある井戸を使っていた。風呂場はあったが桶が壊れていたので、専(もっぱ)ら会社の風呂に入りにいった。風呂に行くついでに、私はトロッコに載ったり、荷物置場の防空壕を探険したり、化学実験室に行って、ガラス管を高熱で伸ばすのを眺めたりした。


●母のこと
 母は会社の敷地に畑を作っており、大根や薩摩芋、人参や茄子、胡瓜を沢山作っていた。時には下肥を運んだり、芋掘りを手伝わされたりした。
 折角作った玉ネギを夜中に全部盗まれたこともあった。工場の脇にテニス場があったので、家族でラケットを持って遊んだこともある。
 会社や工場は私にとっては遊び場であったが、父は戦後のストライキなどの対策で、心休まる暇が無かった様である。
 私の兄弟5人は次々と家を離れ、父と母だけが古い家に住んでいた。やがて家の雨漏りがひどくなったので、兄のいる横浜に土地を買って新築することになったが、家が出来上がる前に父が亡くなってしまった。一人になった母は、住み慣れた地に居たいということで、今までのところに家を建て直した。

 それから30年近く一人で暮らしていたが、3年前に軽い脳梗塞を起してから、日常生活が不自由になった。初めは子供達が交代で家を訪れていたが、それも大変なので、ケアハウスに入ることにした。
 それでも時々家に戻り、子供達が集まって食事をしたりしていた。今年の3月半ばに風邪をこじらせて危篤となり、慌てた私は母の様子を見に行った。私の顔を見た母は未だ意識があり「よく来たね」と言っていたが、翌日から意識不明の状態となってしまった。
 医者が「数日しか持たないだろう」と言うので、私は家に泊って、毎日朝と夕方に病院に様子を見に行った。丁度桜が咲き始め、病室から満開の桜が見えるようになるまで、十日余り病院に通ったが、同じ状態のままなので、一旦帯広に戻ることにした。
 母は入院してから1ヵ月めの4月17日に亡くなった。新緑の木々に春雨の降る日であった。



 私の育った三春町の家から病院まで3キロ位離れている。母を見舞うのは朝と夕方であり、他の兄弟がその合間に東京や埼玉、横浜から病院を訪れた。
 家から病院まで毎日同じところを歩くのは変化がないので、なるべく違う路を通ることにした。丘の下を京浜急行の線路に沿ってゆく路と、丘の上の方を抜ける路がある。
 横須賀はどこも丘陵が海まで迫っており、坂と石段とトンネルの多い街である。電車に十分間乗っただけで、十以上のトンネルを通ったりする。
●市立博物館まで
 私の家から踏切を渡り、石段を登ってゆくと、人一人がやっと歩ける、巾の狭い道がくねくねと家々の間を通っている。その道を適当に選んで歩いて行くと、登ったり、下ったりしながら病院の裏手にある丘の公園に出る。
 梅林があり、梅が咲き始めていた。昔はここに市立病院があったが、今は文化会館と市立博物館が並んでいる。博物館の前には船越保武の彫刻が立っていた。
 私は毎日この前を通り、裏手の急坂を降りて病院に通っていたので、時間があると博物館に入って展示品を見て廻った。



●博物館の内部
 博物館は丘の中腹に建っているので、1階からも2階からも中に入ることができる。1階は自然部門の展示で、三浦半島の動植物や鉱物、化石類が展示してある。
 2階には三浦半島の歴史と民俗であり、人が住みついた頃から鎌倉時代の三浦一族の頃、および江戸時代の人々の生活や、製鉄所と造船施設のできた明治時代の展示がある。
●ペリー
 横須賀は、開国の発端となったペリーの黒船が来航した地である。嘉永6年(1853年)6月3日にペリーは浦賀にやって来た。
 米国のノーフォークを前年(1852年)の11月24日に出港し、大西洋を南下してケープタウンに1853年1月24日〜2月3日、インド洋を抜けシンガポールに3月24日〜29日、南シナ海を北上して上海に5月4日〜23日、琉球に5月26日〜6月12日、それぞれ寄港した。
 最終目的地の浦賀には6月3日から12日まで停泊した。この日付は旧暦であり、今日のグレゴリオ暦では7月8日から17日に相当する。




 ペリーの本名はマーシュ・カーブレイス・ペリーであり、1794年4月10日ロードアイランド州の海軍に従事する一家の三男として生まれた。
 19世紀、米国の捕鯨業は大西洋から大平洋に移っており、米国は捕鯨船の寄港地として日本に開港を要求していた。また清国との貿易の中継点としても日本の重要性は増していた。
 ペリー一行は、旗艦サスケハナ号とミシシッピ号が蒸気船であり、サラトガとプリマウス号は帆船であった。後二者は蒸気船の石炭と食糧、水などの貨物の運搬に必要であった。
 今年はペリー来航150周年に当たるので、横須賀および横浜では多くのイベントが計画されている。
 横須賀の東京湾入口に当たる観音崎は、日本で初の洋式灯台が明治2年(1869年)に作られたところである。洋式灯台は1869年1月1日から灯されているが、浦賀にはその200年程前の1648年(慶安元年)に、岬の上に灯明堂という灯台が築かれていた。
 高さ7m程の二階建の木樓で、油を灯して航行する船の目印としていた。浦賀は大阪と江戸および、伊豆や相模と江戸を結ぶ海上路の要所でもあった。
●製鉄所
 開国した幕府は日本の海軍力を整備するため、フランスの援助により、横須賀に製鉄所を建設することにした。製鉄により近代工業の基を作るとともに、欧米と並ぶような軍艦を建造しようとしたのである。
 製鉄所および造船の技術者としてフランスからヴェルニーが招聘された。当時28歳の造船技師であり、仏のプレストの海軍工廠(しょう)に勤め、中国で造船の指導をしていた。
 慶応2年(1866年)9月、横須賀に製鉄所が起工された。横須賀製鉄所は後に造船所となり、やがて海軍工廠と改称された。フランソワ・レオンス・ヴェルニーは12年間日本に滞在して、我国における造船技術の基礎を築いた。
 ヴェルニーの功績を称えて、「ヴェルニー記念館」が横須賀駅の脇に建てられている。ヴェルニー記念館は市立博物館の別館として製鉄所に関連のある品々を展示している。特に1866年に造船のためオランダから輸入された大型のスチームハンマーは見ものであるが、これは最近まで140年近くも使われていた機械である。


バックナンバー  

Copyright (C)Press Work 2002 All Right Reserved.