●母のこと
母は会社の敷地に畑を作っており、大根や薩摩芋、人参や茄子、胡瓜を沢山作っていた。時には下肥を運んだり、芋掘りを手伝わされたりした。
折角作った玉ネギを夜中に全部盗まれたこともあった。工場の脇にテニス場があったので、家族でラケットを持って遊んだこともある。
会社や工場は私にとっては遊び場であったが、父は戦後のストライキなどの対策で、心休まる暇が無かった様である。
私の兄弟5人は次々と家を離れ、父と母だけが古い家に住んでいた。やがて家の雨漏りがひどくなったので、兄のいる横浜に土地を買って新築することになったが、家が出来上がる前に父が亡くなってしまった。一人になった母は、住み慣れた地に居たいということで、今までのところに家を建て直した。
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それから30年近く一人で暮らしていたが、3年前に軽い脳梗塞を起してから、日常生活が不自由になった。初めは子供達が交代で家を訪れていたが、それも大変なので、ケアハウスに入ることにした。
それでも時々家に戻り、子供達が集まって食事をしたりしていた。今年の3月半ばに風邪をこじらせて危篤となり、慌てた私は母の様子を見に行った。私の顔を見た母は未だ意識があり「よく来たね」と言っていたが、翌日から意識不明の状態となってしまった。
医者が「数日しか持たないだろう」と言うので、私は家に泊って、毎日朝と夕方に病院に様子を見に行った。丁度桜が咲き始め、病室から満開の桜が見えるようになるまで、十日余り病院に通ったが、同じ状態のままなので、一旦帯広に戻ることにした。
母は入院してから1ヵ月めの4月17日に亡くなった。新緑の木々に春雨の降る日であった。 |