池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『江戸東京博物館』


■博物館外観と入口
 江戸東京博物館は十年前の3月末に開館した。江戸と東京の歴史と民俗文化遺産を展示するための博物館であり、両国駅前にユニークな建物が聳(そび)えている。
 全体の形は和風の大きな家のように見える。大屋根とそれを支える柱が4本建っており、部屋に当たる部分には隔壁がなく吹き抜けになっている。
 2階部分は建物の床といった感じで広々としたテラスになっており、天井に相当する5階と6階に展示室がある。エスカレーターかエレベーターでまず6階に登ると、そこが入口になっている。
 入口には案内コーナーがあり、日本語のほか英、仏、独、西、中国語によるボランティア解説員がいる。最近は各地の博物館でボランティ
アによる解説が行われているが、日本語以外の言葉がこれほど揃っているところは他に見られず、さすがに東京の博物館だけあると感心してしまった。
■実物大の日本橋を渡って

 入口から直ぐに、実物大の日本橋を渡る仕組みになっている。木造の橋のちょうど半分の長さが復元されており、江戸の雰囲気が体験できる。日本橋は1603年の開幕時に初めて架けられたもので、幅は4間2尺(8m)で、長さは28間(51m)あった。
 橋の向こうは江戸の町並みと大名屋敷の模型や屏風、徳川幕府に関する展示品がある。幕府の軍艦で使っていたスープ皿は英国のウェッジウッド製のもので、底が二重になっており、湯を入れて保温できるようになっている。


●江戸ゾーンの展示
 6階はそれ程広くなく、5階が主な展示場となっている。ここは江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれており、他に特別展示コーナーや体験展示コーナーがある。
 江戸ゾーンには棟割長屋が作られており、お産の場面や職人の仕事場を覗くことができる。錦絵と草紙を売る店では、美しい女性や相撲取りの木版画が壁に掛かっており、20回近い工程の重ね刷りの手法が解説されている。
 商業の展示では生地問屋である越後屋の模型が精巧に作られており、内部の様々な人の様子が一目で解るようになっている。展示コーナーでは、千両箱や肥桶の重さを実際に持って体験できるようになっている。天保小判は一枚11・3gなので、これを入れた千両箱は11kg以上あり、ズシリと手応えのある重さであった。肥

桶は1つが5kgあるので、肩に担ぐと10kgの重さとなる。特別展示コーナーには、石器時代から戦国時代に至るまでの、生活用具や資料が収集されている。
 汐留駅周辺の発掘で見出された江戸の上水道跡の木樋や上水桝、井戸枠が展示されている。百万都市江戸は水が不足していたので、かなり遠方から上水を引いており、それが町並に沿って地下に細かく配管され、要所に共同井戸を設けて水の便を図っていた。水道の未整備のところや、飲料水の不足する場所では、水売りが桶を担いで水を売り歩いていた。
 日本橋の下にある体験コーナーでは、人力車を挽いたり乗ってみることができる。ここにある郵便箱は未来の自分に宛てた手紙を出せるポストである。



●東京ゾーンの展示
 東京ゾーンの初めでは鹿鳴館やニコライ堂、明治の銀座の様子を機械仕掛けの人形や音楽、ジオラマによって愉しめる。芝居のカラクリを見せるところもあり、「お岩さん」をどの様に早替わりで演ずるかが、人形の動きによって理解できる。
 東京ゾーンでは戦争前後の展示が特に面白かった。東京衛生試験所栄養部の料理献立が展示されていたが、鶏肉75匁を醤油2〜3匁用いて煮るというものだった。動物タンパクの摂取のための献立のようだが、戦後かなり経つまで、鶏肉は日常の食として用いられなかった。
 長靴洗器は大正から昭和の初めにかけて、雨の日に東京駅前に備えつけられたもので、ブリキ製の大型バケツと如露のセットである。当時舗装道路が少なかったので、出勤してきた人々が泥で汚れた長靴を洗ったものらしい。
 同じようなものが北海道でも、昭和30年代まで学校や役所、会社の入口で見かけられた。水溜場と柄付タワシが置いてあり、泥で汚れた長靴を洗ってから玄関に入ったものである。
 戦前のガソリン給油器やバタン式信号機はいずれも手動式で、車が少ない時代を思わせるものである。




●電気パーマと輪タク
 電気パーマは沢山のコードと髪挟みが付いたもので、戦後も暫らくの間この機械が使われていた。パーマは電髪と呼ばれていたが、当初は加熱しすぎて髪毛が全部焼けてしまったり、火傷をしたりすることがあった。
 風船爆弾は直径10mに及ぶ紙の風船に、2キロの焼夷弾と15キロの爆弾をつけて飛ばしたものである。四千枚の和紙をコンニャク芋の糊で貼りつけて風船を作った。戦争中に1000個余り作られ、そのうち約200個が米国に落下している。
 輪タクは自転車の後ろに幌付の二輪車をつけたもので、戦後人の運送に用いられた。人が車をこぐので、坂道や砂利路ではかなり苦労したようだが、その実物は珍しく、私には懐かしいものである。
 60年代になると国産の大衆車が発表されるようになった。その先駆けとなったのが「スバル360」である。当時軽自動車が出始めており、エンジン容量は360cc以下であった。スバル360は小型ながら四人乗りで、価格はほぼ千ドルの36万円程であった。



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