池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『奄美海洋展示館』『奄美博物館』


■「奄美大島」
 日本列島は南北に細長く、北緯25度から45度まで伸びている。その南にある奄美大島は奄美諸島の北端に位置する一番大きな島で、単に大島と呼ばれている。大島は、与論島、沖永良部島、徳之島、喜界島と共に、鹿児島県大島郡に属している。
 私は学生時代、九州一周旅行のついでに奄美大島を訪れたことがある。昭和36年の春であった。当時沖縄は未だ米国の占領下にあったので自由に行ける南の果てが大島であった。
 当時は鹿児島から小型の船で20時間余りかかって名瀬に着いたが、藁葺きの家が多くあり、暮らしぶりは本土とかなり異なっていた。言葉は候言葉の変化したものを用いており、島の人の会話はほとんど理解できなかった。「行きなさい」を「いきょうらい(行き候)」、「見なさい」を「みそうらい(見候)」などと言っていたことを覚えている。
 それから41年経ち、再び大島を訪れてみた。名瀬の街は昔の面影がない位、すっかり変化していた。埋立地の新しい建物と道路の整備が、町の景観を別のものにしていた。
 大島の面積は700平方キロメートルで全島が山地であり、ソテツ、アダン、シイ等が生育している。海岸には小さな浦が連なっており、浦から次の浦へは、一旦尾根を登って峠を越えて行かなければならない。
 最近は島の中央に長いトンネルが掘られ、名瀬から南の住用まで短時間で行けるようになったが、瀬戸内の古仁屋までは、高い峠を越して行かなければならない。いずれここにもトンネルが開通するであろう。
 40年前に峠を幾つか越して根瀬部部落まで行ったが、今ではトンネルで、すぐに着いてしまう。45年の歴史のある根瀬部小学校も、隣の知名瀬小と合併して知根小学校になっていた。


■「奄美海洋展示館」
 名瀬の西隣の大浜海浜公園に奄美海岸展示館がある。水族館を兼ねた海に関する博物館である、仲々見応えのある施設であった。
 映写室では『太陽(ティダ)からの贈物』という珊瑚礁の生物に関するものと『夜の珊瑚礁探検』というビデオを上映していた。二本で30分程である。
 ナンヨウブダイという魚は、口から粘液を出して身の周りに膜を張って眠る習性をもつ。夜間敵に襲われないためらしい。
 珊瑚礁は海水温が冬でも20℃以上の透明な海でないと生育せず、日本では九州のトカラ列島の宝島以南と小笠原諸島だけに発達している。

 展示館が建っている大浜海岸の砂の成分は、珊瑚の破片、貝殻、細かな岩石、有孔虫そして海胆の棘(とげ)や蟹の甲羅の小片等である。
 海岸に流れつく漂流物としては、多い順に、ブイ、ペットボトル、イカの甲、空き缶、瓶、草履、サンダル、ライター、電球(漁船の)、海藻、椰子(やし)の実、貝、海胆、珊瑚である。ペットボトルでは、一番多いのが中国製、次に朝鮮半島のもので、三番目が日本のものである。



 黒潮に運ばれる海の幸をユリムン(寄り物)と呼び、昔は椰子の実や流木、鯨など生活に役立つものが多かったが、現在では海岸や海洋汚染の元となるゴミ類が主である。
 貝や魚をとる磯道具(イショドグ)としては、トウギャ(魚突き槍)、ガギ(イセエビ鈎)、ウギュン(タコ漁手鈎)、スレンシキ(キビナゴを捕る道具)、ビズル箱(箱眼鏡)が展示されている。
 有害な生物としてラッパウニ、ハブクラゲやアンボイナ、カバミナシガイなどの貝、アイゴ、セムシカサゴ、ハナミノカサゴなどの有毒魚がいる。カバミナシガイは5mmから2cm位の毒のある歯舌を内臓に有している。
 大浜海岸では5月から6月にかけて、アオウミガメとアカウミガメの産卵が見られる。昨年は29匹観察され、一匹当り百個近い卵を産んでいる。また普通はマレーシアやインドネシア、メキシコでしか卵を産まないオサガメが、日本で初めてこの海岸で昨年の6月に産卵している。

 入口の大水槽には海亀や海老、各種の熱帯魚の姿が愉しめる。二階の体験槽ではマンジュウヒトデ、カワテブクロ、アオヒトデ、クロナマコ、シカクナマコ、バイカナマコを手で触って確かめることができる。
 収集した貝も多くあり、昔お金に用いられた宝貝では、採集例の少ないオトメダカラやニッポンダカラ、テラマチダカラなどが展示されている。貝類の中で貴重なものはオキナエビスである。5億年から2億年前に繁栄した貝で、今では生きている化石とされ採集例が少ない。コシダカエビスや、大きさが20cmにもなるリュウグウオキナエビスは、収集家の間で100万〜300万円の価値があるとされている。
 透明な体をもつ5cm程のソリハシコモンエビ、ベンテンコモンエビ、ミカヅキコモンエビの姿は、水槽の中で飾り物のように可愛い。



■「奄美博物館」
 名瀬港の西に奄美博物館がある。民俗自然博物館で2階に民俗具、3階に自然の動植物の展示がある。
 前庭には百年前に建てられた萱葺きの民家が移築されており、高倉の食料庫が五棟並んでいる。
 1階特別コーナーでは郷土の作家島尾敏雄に関する資料が展示されている。島尾は大正6年横浜生まれであるが、戦時中第18震洋隊指揮官として大島で生活していた。
 島尾の文学碑は加計呂麻島の呑ノ浦に建てられている。ここで彼は特攻隊として潜水艦の出撃訓練を指揮しており、本を借りたことが縁となって島の娘さんと結婚した。代表作は『出孤島記』『死の棘』がある。 
 奄美大島は江戸時代以前は琉球に属しており、江戸時代は薩摩藩に領有されていた。戦後は米軍に占領されていたが、昭和28年12月に日本に復帰した。
 奄美大島が日本史に登場するのは遣唐使の時代である。新羅との関係が悪化したので、中国航路に南島路がとられるようになり、日本書紀や木簡に海見(アマミ)、阿麻弥(アマミ)、菴美(アマミ)といった名前が記されている。

 書紀の斎明紀3年9月の条には海見嶋が、天武紀11年7月の条には阿麻弥人とある。また続日本書紀の文武紀3年7月条には「タネ」(※漢字は図表参照)、夜久(ヤク)と共に奄美が、元明紀にも和銅7年と霊亀元年に奄美の名前が記録されている。
 薩摩藩の統治下では黒糖の生産が強制され、島民が砂糖を舐めただけで鞭打たれ、製糖の質が劣る時は、首枷や足枷の刑に処せられた。
 米軍政下では、本土を訪れるのにパスポートに相当する証明書を必要とした。軍票と称する紙幣(B円札)が通用しており、1ドルが120B円であった。
 奄美の蛙としてはオットンガエル(お父さん蛙の意)、アマミハナサキガエル、イシカワガエル、ヒメアマガエル、リュウキュウカジカガエル、ハロウェルアマガエル等がいる。
 奄美には蘇鉄が多いが、その実でソテツミソ、ソテツモチ、ソテツガユやソテツ焼酎を作ったり、飢饉の時には茎や実の澱粉を水に晒して救荒食糧とした。

■「製糖」
 薩摩藩の財源として、黒糖の製産が進められた。刈り取られた砂糖黍(きび)は牛車や水車で搾られ、糖汁は大鍋で煮つめて石灰を入れて固められた。煮つめて固める作業を練りと称する。昔は搾汁機の歯車は木製であったが、1811年(文化8年)に鉄輪が用いられるようになり、効率が上がるようになった。
 奄美では焼酎のことをセーとかセヘと呼び、蘇鉄の実や芋を原料としていたが、現在では米と黒糖を用いて醸造している。

■「加計呂麻島」
 私は自動車の免許を学生時代に取得したが、40年間車に乗ったことはない。免許を取ってから、ほんの少し60ccのバイクに乗っただけである。
 奄美の交通は不便なので50ccのスクーターを借りることにした。昔と異なり性能が良く、アクセルをふかすとすぐスピードがでるので驚いてしまった。40年ぶりのスクーターは、初めはフラフラして運転できず、店の人に「大丈夫ですか」と訊かれてしまった。

 走っている内にすぐ馴れたが、道路交通法はすっかり忘れており、スピード制限が40キロだったか50キロだったか、なんて考えながら走っていた。長いトンネルでは、後ろから来る車が恐くて力一杯アクセルを回したら、100キロ近いスピードが出てしまい、便利だが危険だなと思った。
 名瀬か宇検を経て湯湾へ行き、久慈から西古見を往復して古仁屋まで行った。ここで資料館を見て、山を越して住用よりトンネルを抜けて名瀬に戻った。
 次の日は真直ぐ古仁屋に行き、フェリーで加計呂麻島に渡った。諸鈍の浜では昔泳いだことがあったが、相変わらず海は静かで人は少なく、路だけが良くなっていた。樹齢三百年のデイゴの大木が85本も海岸に並んでいる。5、6月真赤な花を咲かせるが、ここは48作目の『男はつらいよ』のロケに使われた海岸である。
 加計呂麻島は入り組んだ浦の多い、平地の少ない島である。車が少ないため、スクーターを快適にとばして浦々を巡っていった。この島と大島の間の海はリアス式海岸であり、瀬戸内と名付けられている。

■「味盛食堂」
 名瀬の街を夕方散歩していたら、三線(サンシン)に合わせた島唄が聴こえてきた。覗いてみると公民館の2階で百人程の人々が集まり、特有の裏声を使った島唄を習っていた。私も参加して声を出して見たが、言葉も奄美の古い方言で解らず、特有の裏声の節廻しは、とても難しく、皆の唄についてゆくことが出来なかった。ゆっくりした抑揚のあるリズムは聴いていて心地良く、本格的に習ってみたいと思った。

 夕食は繁華街のはずれにある「味盛食堂」で島焼酎を飲みながらチャンポンを食べた。食堂の主人久保さんの話しでは、歌手の仲曽根美樹がよくこの店を訪れたそうである。仲曽根美樹と言っても知らない人が多いと思うが、40年程前に『川は流れる』をヒットさせた人である。
 私の学生時代に流行った歌であるが、久し振りに若い時を思い出し、食堂の常連笹木正信さんのギターに合わせて『川は流れる』を酒を飲みながら歌ってみた。





バックナンバー  

Copyright (C)Press Work 2002 All Right Reserved.