池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『与論島』


■与論島
 与論島は北緯27度、東経128度に位置し、沖縄と奄美大島の中間にある小さい島である。奄美大島からは徳之島、沖永良部島を経てこの島に着く。周囲20H余りの珊瑚礁からなる島であり、沖縄本島はすぐ隣であるが、与論島は鹿児島県大島郡に属している。
 島はほぼ円型で、真中が幾分高くなっているが、山らしいものはない。南側の琴平神社のある処が城跡で、島の最高の場所だが、それでも海抜50m位である。その向かいには与論小と中学校があり、背後に高千穂神社があった。
 海岸近くにも道路があるが、主要道路は島の小高い処を一周するものである。一巡りで十数キロ余りであり、バスは一応右と左廻りに走っているが、一日に数本しかない。
 島へは船か飛行機が連絡しており、船は大島と沖縄より上りと下りの船が一日一便ある。港は島の中心地茶花の近くの茶花港と与論港があり、風向きにより、船の出入りが異なる。近くに与論空港があり、小型飛行機が鹿児島と沖永良部とを結んでいた。
 与論島はギリシャの村と姉妹提携しており、ギリシャ村といったものがあり、地中海風の家や、海岸に白堊の造型物が建っていた。
 浜はどこも珊瑚のかけらが多く、白い砂が続いており、水泳やダイビングに訪れる人も多い。水利が悪いため米はできず、専ら砂糖キビ畠が多く、芋や野菜も作っていた。
 畠の中心地茶花は北海岸に面しているが、5町程の本通りに店が並んでおり、その周りに民家が点在していた。


■サザンクロスセンター
 島の一周道路を左廻りで歩いてみた。琴平神社の境内にサザンクロスセンターという小じんまりとした5階建の博物館があった。南十字星が見える最北端の島なので、サザンクロスの名を付けたらしい。
 1階では与論の属する大島郡の島の紹介がされている。奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島と与論島である。
 与論島の西には大金久海岸があり、珊瑚の砂浜が2H程続いている。干潮時には、沖に広大な百合ヶ浜と呼ばれる砂洲が現われ、星砂を拾うことができる。

 2階へのスロープには祭りの衣裳や面、島の昔の写真が飾られている。2階には大島紬の織り機や紬の製作過程が示されており、昭和30年代以前の生活が、様々な民具や写真によって再現されている。
 3階は城跡の出土品の壷や土器の他に、島の主産物である砂糖黍(きび)と、船や魚拓による漁業の展示がある。
 4階は与論の海の貝や珊瑚、ウニやヒトデと共に、鳥や蝶、昆虫が集められている。
 5階には巡視船「あまみ」の操舵室が設置されているが、船の本体は魚礁として、島の西側に沈められている。


■与論民俗村
 琴平神宮から西へ2H程の処に民俗村がある。近くの赤崎鍾乳洞も見たいと思ったが、客が少ないためか閉まっていた。
 民俗村は個人で経営しており、サトウキビ畠の中に蘇鉄の並木があり、藁葺の建物が並んでいる。
 門代わりの小屋に年寄りがおり、「珍しく客が来たな」といった顔をして券を渡してくれた。隣の母屋では織物やお菓子、焼物を土産として売っている。
 藁小屋の幾つかに生活用具が雑然と集められていた。甕だけが並んでいる小屋があった。酒や醤油、油や水、穀物などを入れて貯蔵するもので、入口の小さなものは、タカセ貝という大きな巻貝を逆さにして蓋の代わりにしていた。
 昔はサツマイモを常食にしており、芋をふかす大鍋や芋をスライスする芋切りがあった。金物が貴重だったので、ビロウの葉の水汲みやホラ貝の湯沸しが使われていた。棘の多いフグ科の針千本を天井より下げて、その下に食物を吊って鼠除けにしているのが面白かった。

 巻貝の水字貝は、表から見ると5つの突起が水の字状になっており、その形から火災除けや魔除けとして、勝手口や台処に飾られている。沖縄や奄美地方で広く行われている風習である。
 与論島では旧暦の三月三日に、新生児の浜下りが行われる。新たに生まれた子どもに対して、男子にはティルとよぶ魚篭を、女子にはソィガマと称する笊(ざる)を持たせて、家族揃って御馳走を作り浜に出かける。
 子どもの足を波打際の砂につけ、丈夫に育つように祈りながら食事をして、愉しい一時を過ごす。これを「浜下り」と呼んでいる。
 与論島では他の大島郡の島とは異なり、沖縄方言に近い言葉が話されているが、この島特有の語彙も使用されている。



■与論島の方言
○サービタン:ごめん下さい
○ウヮーチタバーリ:いらっしゃい
○ヨイヨイシウァーリ:ゆっくりして下さい
○マタウヮーリョー:また来て下さい
○ナーヤー:さようなら
○イジクン:いってきます
○マサィビュータン:ごちそう様
○トゥートゥガナシ:有難とう
○パジミティフガミャービラン:初めまして
○ガンイー:そうですが
○オー:はい
○イッチンマージン:いつも一緒
○アチャ:父
○アンマー:母
○ウットゥビ:弟、妹
○ヤカ:兄
○アンニャー:姉
○フィガ:男
○フナグ:女
○ドウシ:友達

 高倉式の食料庫が建っている。高い4本の柱の上に食料庫と屋根があり、柱の上部には鼠返しの板が取り付けてある。
 庭には砂糖黍の搾り器が置いてあった。長い柄を馬や牛に挽かせて、甘蔗から砂糖の汁を搾るのである。それを煮詰めると黒砂糖になる。
 ディゴの木の幹に藁を巻き、下端を水瓶に入れたものがある。この島は水が不足していたので、天水を集めて甕に溜め、生活用水としたのである。同様のものは韓国の斉州島や沖縄および八丈島でも見たことがあるが、井戸が掘れない処では、昔は雨水を利用せざるを得なかった。
 島の周りは恰好の漁場であり、時には大形魚を獲ることができる。釣り上げた40キロから60キロの大魚の魚拓が展示されていた。

■一周路
 島の一周路を左廻りと右廻りで一周してみた。この路に添っては家々が少なく、人々はもう少し海岸寄りか島の中の方に住んでいるようである。路はわりと真直で、歩いていても変化なく、両側に砂糖黍の畠が続くだけである。3時間余りで一周してしまった。
 一時は離島ブームでかなり賑わったらしいが、今では余り訪れる人が多くないらしい。旅館ではオリオンビールを飲みながら、豊富に出された刺身を食べて、南の海の味を堪能することができた。






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