池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『金沢文庫』


●湘南電鉄と呼ばれた電車
 東京の品川から私鉄の京浜急行が三崎口まで通っている。私の小さい時は湘南電鉄と呼んでおり、品川より浦賀まであり、堀之内より久里浜まで支線が出ていた。久里浜までは単線で、電車の数も少なかったが、今は久里浜から三崎口まで伸び、こちらが本線になってしまった。
 京浜急行から京急と呼ばれるようになり、昔は普通、準急、急行に分かれていたが、いつの間にか普通、急行、特急になった。今では快速特急というのもある。
 私は公郷駅より中央、汐留、逸見、按針塚、田浦まで乗り、ここにあった栄光学園というイエズス会が創設した中、高学校に通っていた。公郷は現在は安浦と改称されたが、田浦とともに普通しか停まらない駅である。この間はわずか10分間であるが、トンネルが12個もある。そのうち、トンネルの中から3つ先のトンネルまで見えるところが2カ所あった。
●地名の由来
 汐留は不入斗(いりやまず)という地区にあり、今では汐入駅と改名された。1600年に豊後沖で和蘭(オランダ)船リーフデ号(オランダ語で「愛」の意味)が遭難した。そのパイロットであったウィリアム・アダムスの所領していた地が逸見(ヘミ)であり、アダムスの墓が按針塚の山の上にある。按針とはパイロットの意であり、アダムスはオランダ船に雇われたイギリス人であった。ちなみにアダムスの墓は平戸にもある。
 一緒に来た蘭人ヤン・ヨーステンとともにアダムスは家康に重用された。ヤン・ヨーステンは東京駅の東側に家屋敷を与えられた。東京駅の東側を八重州(ヤエス)口と呼び、東京湾に続く道路を八重州通りと名づけているが、これはヤン・ヨーステンにちなむ名称である。


●金沢文庫の歴史
 京急の特急停車駅として、横浜以南では金沢文庫と金沢八景がある。金沢という地名は、鎌倉幕府を継ぐ北条氏の分家の金沢北条氏の所領であり、武蔵国六浦庄金沢(むさしのくにむつらのしょうかねさわ)と呼ばれていたが、今では「かなざわ」と呼ばれている。
 金沢文庫は北条実時により創設された。実時は亡き母の供養のため称名寺を建てたが、実時以下四代に渡って受け継がれた書籍は、現在称名寺境内の金沢文庫に納められている。
 称名寺の正門である赤門を抜け、甃(いしだたみ)を歩いて仁王門を通ると池がある。この甃は廃止された横浜市電の石を敷いたものである。反橋と平橋を渡ると金堂がある。その裏には稲荷山、日向山、金沢山が並んでいる。池の左手に小さなトンネルがあり、その壁には歌川広重の金沢八景が飾られている。






●文庫内の様子
 トンネルを抜けるとすぐに金沢文庫の入口となる。一階には鎌倉幕府の説明板やビデオ、それに密教法具が仏像とともに並んでいた。二階には金沢に纏(まつ)わる名所図会、八景図、古文書や曼荼羅(まんだら)がある。廊下に続いて図書室がある。
 私は中学生の時、金沢文庫を訪れたことがあったが、このときとは建物が変わっており、展示資料も豊富になった感じがする。
 金沢文庫は七百数十年前に建てられたもので、当時の図書館および学問所を兼ねたものである。15世紀に建てられた足利学校とともに、我が国の代表的な教育機関である。
 北条氏以降、秀吉の養子秀次や明治時代の伊藤博文、昭和初期の出版業で活躍した大橋新太郎の助力により、金沢文庫は存続し充実してきた。

●金沢八景とは
 金沢文庫は横浜の金沢区に属しており、東京の近郊として住宅が多い。金沢八景の地名は中国の僧心越により命名されたもので、洲崎の晴嵐、瀬戸の秋月、小泉の夜雨、乙舳の帰帆、平潟の落雁、野島の夕照、内川の暮雪、称名の晩鐘である。
 もともと八景とは中国の瀟湘八景が起源であり、我が国に齎(もたら)されて、近江八景や南都八景(奈良)、金沢八景などが作られた。
 称名寺は金沢北条氏の菩提寺であり、北条実時の墓がある。建物の配置は創設時と余り変化がないが、三重の塔や僧房、新宮は今はない。仁王門の仁王像は関東一大きいといわれ、約七百年前の院興の作である。観音像は1311年に海に流され、その後漁師の網にかかって拾われ、八角堂に安置されていたが、現在は金堂に祀られている。

 境内にある「かいじゅ」は孔子木とも呼ばれ、孔子の墓の側に生えていたものといわれる。
 金沢八景の宝樹院は小泉純一郎、純也、又次郎三代の菩提寺であり、小泉家の墓がある。小泉純一郎さんは横須賀の山崎小学校の出身であり、家は三春町一丁目にある。私の実家は三春町一丁目36番地であり、小学校も6年間同級生であった。小学生の小泉純一郎さんは毎日私の家の前を通って山崎小学校に行っていたが、あまり目立たない子どもであった。

●文庫で見つけた戯書
 金沢文庫の一室に江戸時代の戯書があった。
 
総鯛(すべてたい)
 世間を見るに、働きもせず、呑鯛、食鯛、遊び鯛と無鯛(無体)な事を願ひ、身鯛(身代)を鯛なし(台無し)にする者多し。有が鯛(有難い)、めで鯛、神と祈るより、身鯛(身代)を只鯛せつ(大切)にせよ。
              陀阿一斎書

 確かに、ただ欲求だけを抱いて何もしないより、身体の健康を保ち、己れの身代を大切にして、日々努力して生きることが肝要だと思われる。





バックナンバー  

Copyright (C)Press Work 2002 All Right Reserved.