池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『昭和のくらし博物館』


●もとは個人宅だった
 高度成長期を境いにして、日本人の生活は大きく変わってきた。生活用具や食物とともに、住む場所の変化も大きい。古い住宅は次々に壊され、新しい建物に造り変えられていった。
 昭和のくらし博物館は小泉和子館長の個人博物館である。小泉さんの父小泉孝氏が昭和26年に設計し、住宅金融公庫の融資を受けて建設された。
 当初は1階が6畳、4.5畳、4.5畳の3間、2階が4.5畳、4.5畳の2間で、18坪の家に小泉さん一家6人と、下宿人2人が住んでいた。小泉さんは両親と4人姉妹である。下宿人は公庫からの借金を返すために置いたものである。食事のほかに、掃除と洗濯もしてあげたようである。
 はじめは水道もガスもなく、隣の地主さんの井戸を使わせてもらい、竃(かまど)は裏口に差し掛けをしてそこに置いた。
 翌年にやっと自宅の井戸が掘られ、ガスは昭和40年になって使えるようになった。借地の55坪の敷地に建坪12坪の家が建っていたので、庭を畑にして鶏を飼い一家の食料とした。
 小泉さんのお父さんは建築技師であり、自宅の設計には念を入れ、限られた資材を有効に用いる工夫をした。階段の裏や玄関の上がり框
(かまち)の下など、各所に物入れが作られている。
 昭和41年に縁側付きの6畳を増築したが、子ども達が家を離れ、お父さんは亡くなり、お母さんは骨折のため長女の和子さんの家に移ったので、平成6年に住む人がなくなってしまった。
 40数年に渡って一家が暮らした住宅は、その家財とともに、昭和時代を物語るものとして貴重であると考えられ、生活史研究家の小泉和子さんは育った家を博物館にすることに決めたそうである。



●本をきっかけに知る
 私が「昭和のくらし博物館」を訪れようと思ったのは、河出書房新社から刊行された『昭和のくらし博物館』1500円をワイフが買ってきたからである。
 写真が多く載せられた本を読んでいると、昭和16年生まれの私にとって、自分の育った時代背景が同じであり、そこに描かれている生活用具や日々の生活の有様が、一つ一つ身近なものとして、合点がいくのである。

●戦中から戦後の自宅
 戦争末期、横須賀にあった私の家は戦災で焼ける前に強制疎開で壊されてしまった。建物の稠密地帯に軍が線引きをして、火災が広がらないように、予(あらかじ)め空白地を設けるのである。両親は近くの山に横穴を掘り、私と三人で洞穴生活をした。兄や姉は四国へ疎開していた。私は小さすぎたので、母が面 倒みたのである。
 戦後近くの古い家を買い取り、一家六人が移り住んだ。敗戦の翌月弟が生まれたので、母は身重の状態で、食べるものもない不自由な防空壕暮らしを味わったのである。穴倉生活に比べると、古い家ではあったが、飛び交う爆撃機や焼夷弾の心配もなく、別 世界のようであった。





 6畳、4.5畳、3畳に私達一家が住み、建増しされた8畳には別 の一家が住んでいた。事情はよく分からないが、戦後の混乱期で住宅が少なかったため、二家族が一軒の家に住んだのだと思う。
 水道はなく庭の一隅に井戸があった。水道がついたのは後であった。風呂場はあったが、風呂桶がなかったので、父の働いていた会社の風呂に通 った。父は化学薬品を作る会社の工場長であったが、やがて退職し会社の風呂が使えなくなったので風呂桶を買い、やっと自宅の風呂に入れるようになった。


●畠と鶏
 敷地は百坪程あり、やがて同居人も引っ越していったので、庭に畠を作った。母は以前から父の貸し家の側にも畠を作っていた。私はサツマイモや大根の収穫をしたり、時には我が家から肥料となる糞尿を運ぶのを手伝ったことがある。食糧不足の折、夜中に作物をゴッソリ盗られたこともあった。
 中学生の時、器用な次兄が庭に小屋を作ってくれたので、鶏を飼い始めた。当時は珍しかったロードアイランドレッドという種類の鶏を数羽飼育した。卵を孵すのは矮鶏(チャボ)が上手と聞いたので、番(ツガイ)の矮鶏を一緒に飼った。
 確かに卵を温めるのはうまく、一ヵ月位で次々に雛が誕生した。一時は30羽近くの鶏を飼ったことがある。米糠や麩(ふすま)に近くの山や野で摘んできたはこべを刻んで餌にしたり、魚屋さんで魚の骨やアラをもらってきて、鍋で煮てあげた。野草が少ない時は青物市場に出かけて、卸し業者が出す野菜の屑や少し傷んだものを集めてきたこともある。卵の殻には貝殻が良いと聴いたので、蛤(はまぐり)や浅蜊(あさり)の殻を砕いて餌に混ぜて与えた。

 小学生の頃まで鶏の卵はバナナと並んで貴重だった。病人の見舞いとして紙函に籾殻(もみがら)を詰め、卵を入れて贈ったりした。まだ学校給食がない時、友だちの林君が毎日卵焼きを弁当のおかずにしてもってくるのを見て、とても羨ましく思ったことがある。
 鶏を飼うようになって、やっと念願が叶い、毎日卵が食べられるようになった。生で食べたり、目玉 焼きにしたり、卵焼きにしたりと、細やかな贅沢気分を味わったものである。今でも卵焼きは私の好物であり、結婚する前デートの時に、ワイフに作ってきてもらったりした。
 ところがある晩、隣にある寺の猫が鶏小屋に網の下から忍び込み、ほとんどの鶏を殺してしまった。明け方卵を取りに小屋に入ると、血を流した鶏が倒れており、小屋から隣の寺の住宅まで、食い千切られた鶏の羽や体の一部が点々と続いていた。
 卵は食べたが、飼っていた鶏を食べたことはない。毎日可愛がっていると情が移って、とても殺すことはできなかった。猫事件以来、鶏を飼う気がしなくなったので、残った数羽の鶏は人にあげてしまった。

●当時の家庭用品
 昭和のくらし博物館を訪れる人は「サザエさんの家だ」とか「向田邦子の世界みたい」というそうである。確かに茶の間や台所を眺めると、私の少年時代とオーバーラップして、昭和20年代から30年代の生活が思い出されてくる。
 円い卓袱台、火鉢と飯櫃、状差し、台所のまな板、篩(ふるい)、卸し金、竹の笊(ざる)、アルミ製の丸いパン焼器、羽釜、台十能、炭取り、火消壷、酒瓶、醤油瓶、味噌甕(がめ)など、どれも形は少しずつ異なっていても、私の少年時代を彩 る品々である。
 鉄板を張った木箱に電極を付けたものに、水でこねたメリケン粉を入れておくと、しばらくしてからパンらしきものが焼き上がった。停電が多い時代だったので、途中で生焼けになったこともあった。
 盗電と称して、電気のメーターの前から線を引いて、電気を使う人もいたらしい。木箱のパン焼器に比べると、アルミ製の丸いパン焼鍋はパンらしい焦げ目が付き、ずっとおいしく焼き上がるものであった。

 博物館の外に盥(たらい)と洗濯板があった。私の家に木製の盥と金盥があった。母はいつも金盥に水を張っておき、夕方私達に行水させたり、自宅に風呂を作る前は、自分で浴びたりした。そんな時戸板を持たされ、母の姿を外の人から目隠しさせられたことを覚えている。
 母が働いていたので、私は洗濯をよくした。長くて硬い洗濯石鹸を適当に切り、洗濯板に布をこすりつけて洗った。洗濯には日なた水を作っておき、それを使った。茶碗や鍋を洗うのに竈の灰や磨き粉を使用した。
 歯磨きは練りものではなく乾いた粉で、紙の袋に入ったライオン歯磨を用いた。ライオンには虫歯がないと何かの映画で見たことがある。スモカ歯磨というのもあったが、宣伝文句に「タバコのヤニを取る」とあったので、私は使わなかった。
 張り板も懐かしいものである。昔は和服だったので、汚れたものは、年に数回ほどいて洗濯し、張り板か伸子針で展ばして乾かした。子どもの頃張り板を滑り台代わりにして遊んだ記憶がある。


●女性の仕事具とハエ取り器
 女性の仕事具として、アイロンのほかに火熨斗(ヒノシ)や鏝(コテ)がある。どれも子どもにとっては玩具として面 白いものであった。髪にウェーブをつける髪用の鏝もあった。炭火の中に先端を入れておき、髪を整えるのに使っていた。その内に電気鏝というのも出回ったようである。  パーマが現れたのは戦後である。電気パーマネントと呼ばれ、コードが何本も丸い輪から吊り下がった電気髪結機を用いて、パーマネントウェーブがかけられていた。出始めの頃は温度の調節が難しく、熱くなりすぎて、髪が全部焼けてしまった人も出たようである。
 縁側にガラス製のハエ取り器が置いてあった。ついこの間まで、魚屋さんにあったような気がする。この変形したハエ取り器として、牛舎のハエ取り器がある。2m位 の上端が少し開いたガラス管で、下端が卵のように膨らんでおり、牛舎の天井に止まったハエを上端で捕まえると、ハエは前後に飛べなくて、ガラス管の下に落ちてくる。  私は農学専攻なので、農場実習でこのハエ取り器を見たが、壊れやすいのと、下端に溜まったハエを取り出すのが面 倒くさいのが欠点だった。

●時期ごとに企画展示も
 博物館では2階の展示室で、その時々の企画展示をしている。8月は戦争にかかわりのある展示をしていた。愛国イロハガルタという戦時中のカルタは読み札がカタカナで書いてある。
  「ミヅダ、バケツダ、ヒダタキダ(水だバケツだ火叩きだ)」、「ヌグフアセミヅ、キンラウホウシ(拭う汗水勤労奉仕)」、「ケサモハヤオキレイスイマサツ(今朝も早起き冷水摩擦)」、「フジヲアフイデコクミンタイソウ(富士を仰いで国民体操)」、「ルスヲマモッテカチヌカウ
(留守を守って勝ち抜こう)」、「ネエサンガヌウラッカサン(姉さんが縫う落下傘)」など、国民の戦争に対する意識を高揚させるような内容が多い。
 展示に併せて、水団(スイトン)をサービスしていた。私も久しぶりにこれを味わい、戦後の飢えの時代を想い出した。




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