池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として、「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。
  十勝古文書研究会顧問、万葉の会代表および講師、文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通 じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。


『熊本市立熊本博物館』


 

 熊本の中心には加藤清正が築いた熊本城がある。天守閣は明治10年の西南役で消失しているが、昭和35年に再建された。天守閣に対峙して聳(そび)える宇土櫓は幸いにも焼け残り、修復されて往時の姿を見せている。
 熊本城の石垣は堀に面していない部分が多く、石垣の真下から見上げると、緻密に組まれた石の曲線が、上部にいくほど急になり、刀の反りのように美しい。天守閣には西南役の資料や、熊本の古い街並の写真が展示されている。
 広い城郭の一隅に植物園があった温暖な気候のため、常緑樹が多く集められている。私はこの庭にアカンサスが植えてあるのを見つけた。
 アカンサスはキツネノマゴ科ハアザミ属の大形多年草で、南ヨーロッパ原産である。薊(あざみ〕科の植物なので、葉は羽状で切れ込みが深く、1メートル以上の長さがある。中心から花穂が伸び、淡紫色の花がいくつも咲いていた。
 アカンサスの葉はヨーロッパでは図案化され、コリント式の柱頭やローマ建築の壁面装飾にされたり、銀器に用いられることが多い。英国の工芸家ウィリアム・モリスは、この葉を、壁紙や布地にデザインしている。
 アカンサスaccathusの名は、ギリシャ語のアカンタ(刺・とげ)に由来している。
 ピラカンサはバラ科のトキワサンザシ属の植物で、トキワサンザシのほかタチバナモドキがある。ピラカンサはピルとアカンサの複合語で、ピルはギリシャ語で赤色を示し、熟した実が赤くなるのでこの名が付けられた。
 ちなみに、生きている化石魚といわれ、アフリカのコモロ諸島沖で捕獲されるシーラカンスの名は、シールとアカンサから来ており、シールは体腔や中空の意で、この魚の脊椎骨は中空の管状であり、刺状突起をもつので、シーラカンスと命名された。



 植物園から少し歩いた二ノ丸跡に、県立美術館がある。大樟(くす)に囲まれた建物に、熊本ゆかりの画家の絵が納められており、半地下部分には、この地方に特有の、装飾古墳が幾つか再現されている。
 美術館から石垣を降りていくと、三の丸の一角に、黒川紀章が設計した市立博物館が建っている。地階にはプラネタリウムがあり、1階と2階が展示室である。
 1階は生物、地質、理科学に関する展示があり、2階には考古、歴史および民俗展示がある。
 また屋外には69000型SLや50万ボルトの碍子(がいし)、通潤橋の石樋とともに、ヘリコプターやビーチクラフト機の実物が展示されている。
 展示品はいずれも興味あるものであるが、イギリスで産業革命の初期に使われた炭坑の蒸気揚水ポンプは、高さ5m、長さ8mの大型で、我が国における炭坑の拡充にも一役買ったことだろうと思った。
 西南役に用いられた銃は、火縄銃の域を出ない旧式のものが多く、雨の日の苦労が偲ばれた。
 庶民の灯りのコーナーでは、油分を含んだ松の根を用いた「アカシ」があった。同じものはスウェーデン、フィンランド、アイルランドの民俗博物館にもあったが、油が貴重であった時代には、どこでも同様な方法で木片を灯源にしていたものであろう。木片を直接燃やすと油煙が出るため、部屋には煤(すす)で真っ黒になる。




 人々は煙と煤で目を傷めながらも、生活のために夜の労働をせざるを得なかったのであろう。蝋燭(ろうそく)や灯りのために油を使う暮らしは、ゆとりがなければできなかったかもしれない。
 考古のコーナーには古代の葬送に用いた甕(かめ)棺が展示されていた。大人や子どもは土製のカプセルに入れられて、埋められていく。母の胎から生まれてやがて大地の子宮に還っていった。甕棺は根の国または黄泉の国へ到達するための、タイムカプセルなのかもしれない。


 博物館の入口横には特別展示室があり、ハンセン病と熊本にある収容施設に関する展示をしていた。長い間、ハンセン病患者は社会から不当な差別を受け、家族にも会えず、施設から出ることも許されなかった。
 博物館の隣りには、旧細川刑部邸が移築されてある。広い庭をもつ重臣の屋敷で、各室には家具、調度品が展示され、毎日の生活を思い描くことができる。
 城の北側に夏目漱石の旧居がある。漱石が五高教授をしていたときの邸宅が記念館になっており、原稿や関連の品々が展示されている。
 漱石の『草枕』は、熊本から西へ峠を越えて小天(おあま)温泉までの旅と温泉滞在中の出来事を題材としている。今でも峠の茶屋が残っており、蜜柑畠の中に、昔の面影が残る山路が点在していた。小天温泉まで16kmを漱石の足跡を辿ってみると、ところどころに漱石の句碑が建っていた。漱石の泊まった家は漱石館として残されている。温泉は大きな新しい建物が、丘の上に新設されていた。
 小天からバスで玉名を訪れた。ここは菊池川に沿って古墳郡が点在し、装飾古墳も多く残っている。江田船山古墳は、5世紀に作られた銘文入りの象嵌剱が出土した有名なところである。ここにはトンカラリと称する石造りの全長400メートルを越すトンネルがあり、その使用目的が謎とされている。
 玉名の図書館裏手に繁根木(ハネギ)八幡宮があり、その境内に三つの石碑が建っている。これは永禄11年(1568年)に補陀落渡海をした上人の記念碑であり、玉名市の文化財に指定されている。
 紀州の那智大社近くには補陀落寺があり、昔から西の海上にあると思われた補陀落世界を求めて、僧が渡海を試みていた。
 私は補陀落渡海は紀州だけの習慣だと思っていたが、九州の玉名にも渡海を試みた人がいることを知り、海上に浄土を求める信仰には、地域的にみてかなりの広がりがあるものかもしれないと思った。







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