当時のアメリカの捕鯨
私は横須賀で育ったので、ペリーは馴染み深い人である。ペリー公園は小学校の1年生の時遠足で訪れたことがあったが、半世紀ぶりに訪問してみると、碑の周りに少し家が増えているだけで、ほとんどその姿は変わっていなかった。
ペリー記念館には古文書や図版、地図、写真が展示されている。ペリーに関連する詳細な資料は、横浜にある神奈川県立博物館と伊豆の下田にある下田資料館に多く収蔵展示されている。
このペリー記念館の展示物で、興味深かったのは瓦版(かわらばん)の「あめりか言葉」と「あめりか、おろしや、いぎりす言葉」である。ところどころ意味の通
じない語が書かれているが、当時の人々が耳だけで聴き覚えた単語の数々が示されており、幕府の禁止令にも関わらず、庶民の旺盛な好奇心により、黒船の乗組員との交流が図られたことが窺える。
当時、アメリカの捕鯨は鯨の肉を食べるためではなく、髭(ひげ)鯨のヒゲと抹香(まっこう)鯨の頭部にある大量
の蝋(ろう)分を採ることが目的であった。西欧や米国の上流階級の婦人は、腰に大きな膨らみのあるスカートを着用した。膨らみを作るためには鯨のヒゲでフープや枠組を作らなければならない。木の枝や細い板で作るよりも柔軟で軽く、加工しやすい鯨のヒゲが珍重された。
ロンドンのビクトリア・アルバート美術館の1階には、臀部が左右に極端に張り出したスカートや、腰の丸く膨らんだスカートが飾られている。私はこの張り出したり、大きく膨らんだスカートを見るたびに、ドアの出入りや椅子やクッションにすわる時は、どのようにしたのだろうかと不思議に思えてくる。
電灯の発明される以前は、宴会や舞踏会の照明として、毎夜多くの蝋燭(ろうそく)が用いられた。なかでも抹香鯨のロウで作った蝋燭は、油煙が出ず、香りも良いので高価に取り引きされた。米国の捕鯨が盛んになる所以である。
|