池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
  1941年神奈川県横須賀に生まれる。帯広畜産大学を卒業し、北海道大学農学部大学院に進む。
 現在、帯広大谷短期大学文化人類学の教授として「人間行動学」「社会環境学」「北方地誌論」「ボランティア論」などを教える。十勝古文書研究会顧問。万葉の会代表及び講師。文化人類学博士(Ph.D.)。言語学に通じ、日本及び世界の博物館、美術館巡りを愉しんでいる。

『ペリー記念館』


 

 太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)
 たった四杯で夜もねむれず

 と江戸時代に詠まれたペリー艦隊は、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に三浦半島の浦賀に来航した。喜撰はお茶の銘柄であり、その上等のものを上喜撰と称した。
 鎖国を続けている日本人を驚かせた米国船の目的は、大統領ミラード・フィルモアの親書を我が国に手渡すことであった。その内容は米国と我が国との友好条約の締結であった。
 当時、米国は捕鯨業が盛んであり、大西洋より太平洋に領域を広げて捕鯨船が進出していたが、船が難破した場合の救助と、食糧や薪炭の積み込みのため、日本への入港許可を求めるものであった。
 旗艦サスケハナ号での交渉の末、7月14日の独立記念日にペリー一行の久里浜上陸が実現した。
 政府は浦賀奉行戸田伊豆守と井戸石見守を応待役として、ペリーの親書を受け取ったが、これを契機として、日米和親条約が1854年に、次いで日米修好通商条約が1858年に締結された。前者では米船の下田、箱館寄港と、薪水および食糧の購入、漂着米人の保護を求めるものであったが、後者では下田、箱館のほかに神奈川、長崎、新潟、神戸の開港と、自由貿易および公使、領事の交換が定められていた。
 ペリー記念館はペリーが初めて上陸した久里浜の公園にあり、その中央には1901年(明治34年)に米友協会の建立したペリー上陸記念碑がある。









当時のアメリカの捕鯨

 私は横須賀で育ったので、ペリーは馴染み深い人である。ペリー公園は小学校の1年生の時遠足で訪れたことがあったが、半世紀ぶりに訪問してみると、碑の周りに少し家が増えているだけで、ほとんどその姿は変わっていなかった。
 ペリー記念館には古文書や図版、地図、写真が展示されている。ペリーに関連する詳細な資料は、横浜にある神奈川県立博物館と伊豆の下田にある下田資料館に多く収蔵展示されている。
 このペリー記念館の展示物で、興味深かったのは瓦版(かわらばん)の「あめりか言葉」と「あめりか、おろしや、いぎりす言葉」である。ところどころ意味の通 じない語が書かれているが、当時の人々が耳だけで聴き覚えた単語の数々が示されており、幕府の禁止令にも関わらず、庶民の旺盛な好奇心により、黒船の乗組員との交流が図られたことが窺える。
 当時、アメリカの捕鯨は鯨の肉を食べるためではなく、髭(ひげ)鯨のヒゲと抹香(まっこう)鯨の頭部にある大量 の蝋(ろう)分を採ることが目的であった。西欧や米国の上流階級の婦人は、腰に大きな膨らみのあるスカートを着用した。膨らみを作るためには鯨のヒゲでフープや枠組を作らなければならない。木の枝や細い板で作るよりも柔軟で軽く、加工しやすい鯨のヒゲが珍重された。
 ロンドンのビクトリア・アルバート美術館の1階には、臀部が左右に極端に張り出したスカートや、腰の丸く膨らんだスカートが飾られている。私はこの張り出したり、大きく膨らんだスカートを見るたびに、ドアの出入りや椅子やクッションにすわる時は、どのようにしたのだろうかと不思議に思えてくる。
 電灯の発明される以前は、宴会や舞踏会の照明として、毎夜多くの蝋燭(ろうそく)が用いられた。なかでも抹香鯨のロウで作った蝋燭は、油煙が出ず、香りも良いので高価に取り引きされた。米国の捕鯨が盛んになる所以である。







 ハーマン・メルヴィルの『白鯨・モーヴィーディック』では、白鯨を追って大西洋から太平洋を巡航するエイハブ船長の物語が記されている。抹香鯨に片足を囓(かじ)られたエイハブは復讐の鬼と化して、鯨油を採ることも忘れて白鯨を追い回し、ついに仇(かたき)に銛(もり)を打ち込むが、自らも白鯨と共に海底に呑まれてしまう。メルヴィルは若い時に捕鯨船の船員をしており、難破をし漂流した経験もあるので、それらを元にして、『白鯨』を著したのである。




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