池添 博彦さん(いけぞえ・ひろひこ)
1941年横須賀生まれ。帯広畜産大学酪農科卒業、北海道大学大学院へ進む。現在、帯広大谷短期大学で文化人類学の教授として「食品科学」「生活科学」「人間行動学」「社会環境学」など教える。十勝古文書研究会会長。言語学に通じ、言葉の歴史を追い世界を旅する。
 
ユーゴスラビアとクロアチア 連載第18回

 

 ユーゴスラビアはスラブ語で「南のスラブ人の国」を意味しており、チトー大統領の時代は7つの民族が1つの国を作り、その中に6つの共和国が存在していた。その後、各民族の独立によって国家の分裂が生じ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアと新ユーゴスラビアの5カ国となった。新ユーゴスラビアは今でもコソボ地方の内戦が激しく、ヴォイヴォイジナやモンテネグロも分離独立の動きもあり、さらに国家が分裂する危機を抱えている。
 旧ユーゴスラビアでは、ローマアルファベット(ラテン文字)とキリル文字の二種が用いられており、宗教はカトリック、ギリシャ正教とイスラム教の三種であった。

 人種はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人の他、ハンガリー、トルコ、スロヴァキア、ブルガリア及びルーマニア人がいた。言語はセルボ・クロアチア語とスロベニア語とマケドニア語が主なものであった。
 セルビア人とクロアチア人がユーゴの主要人種であったが、セルビア人はギリシャ正教を信じてキリル文字を用い、クロアチア人はカトリックでラテン文字を用いている。クロアチア人の方が文化的にも、経済的にも優位にあり、政治的に権力を持つセルビア人への反発が根強かった。
 共和国間の民族対立が高まって国家の分裂が始まり、次々と各共和国が独立した。現在の新ユーゴスラビアはセルビアとモンテネグロ共和国から成それにコソボ自治州を含んでいる。
●ベオグラードの広場

ベオグラード


 ベオグラードはスラブ語で「白い都市(ベオ:白い、グラード:街)」を意味する街であるが、それ程白い建物が多いわけではない。この街はルーマニアから100km、ハンガリーから150kmの処にあり、ドナウ河畔に位置している。ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリーと流れてきたドナウ(ダニューブ)河は、ベオグラードでは大河となりゆったりと流れている。
 ベオグラードでは、キリル文字によって表示や看板が書かれているので、他のヨパ諸国とは異なた感じがする。幸い私は多少ロシア語を学んでいたのでそれほど不便に感じなかった。
 駅前より広い通りがカレメグダン要塞跡の公園に続いている。両側は西欧と同様な店が並んでおり、処々に教会や博物館がある。
 セルビア大聖堂のすぐ前に1823年に建てられたカフがある看板には「?」があるだけの店であるが、開店当初、名前が見つからなかったので、そのまま
「?」にしたらしい。

●カフェ「?」、ベオグラード


●ドブロブニク市街とアドリア海

●ドブロブニク城壁
ドブロブニク

 アドリア海沿いにある、クロアチアの古い港町ドブロブニクを訪れた。     1996年に世界遺産に登録された古い港街で、赤い屋根と白い壁の家々が美しい。
 旧市街は全長2kmの城壁に囲まれており、その上を散策できる。狭い処は一人で歩くのがやっとの幅で、アドリア海の蒼い海を見ながら、風に吹かれて石段を登ったり、坂を下りながら、街並を上から眺めることができる。
 街は城門を抜けると、大理石を敷きつめたプラツァ広路が真っ直ぐ港に延びており、左右に小路が走っている。敷石は人や車の往来でかなり磨(す)り減っており、その凸凹がこの街の歴史の古さを物語っていた。
 市街には建物が処狭しと並んでおり、小路が格子状に続いている。観光客が多いので、土産物屋とホテル、レストランが多く、古い教会や修道院があちこちに見られる。
 大理石を使った建物が多く、強い陽差しの中で、白く輝いている。城壁を歩くと、処々に塔や要塞があり、美しい海や市街を眺めることができる。中でも山側に近いミンチェタ塔は、街の一番高い処にあり、ここからドブロブニクの街の眺望は、時間の経つのを忘れる程の素晴らしいものであった。
 海岸で漁師がバケツに何かを泳がせていた。覗いてみると、ウナギ程の大きなゴカイである。日本では魚の餌に用いる10cm位 のものしか見たことがなかったので、1m以上もある太いゴカイが泳いでいるのを見てくりしてしまった。
  こんなに大きな餌で釣るのだから、ドブロブニクの魚は大魚ばかりなのだろうか。
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